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会津若松へ行くことにした。子供の頃、16年程過ごした愛媛は松山も会津若松同様に城(松山城)を中心に栄えた街。城が街にあるのが当然であった。そして城が中心になった歴史背景のある街並みにも自然と惹かれる。訪れて知ったのだが、1590年から会津を治めていた蒲生(がもう)家が途絶え、1627年に松山から加藤嘉明(秀吉の家臣で松山城の築城者)が会津に入った事実を知った。
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喜多方駅を出てJR磐越(ばんえつ)西線に揺られながら昼の1時前に会津若松駅に着いた。なんだかキャンペーン中らしく、駅のあちこちに「極上の会津」という大胆な言葉が目に付く。自らそうやって言っちゃうんだ、と思っていたら、言ってるのはJRさんだった。良かった。(笑)
駅に着いた時点で会津若松について知っていることは、鶴ヶ城(会津若松城)、白虎隊、輪箱飯、旨いそばと旨い日本酒。そばと日本酒が旨いことは、会津若松出身の美人と結婚した横浜在住の友人(た)に飲むたびに聞かされていた。そして、その美人の奥さんが、相当な酒豪ということも…。(笑)
駅を出ると、きれいに整理整頓された街並みがひろがっていた。118号線(中央通り)の歩道をぶらぶら歩く。車の通りはそこそこあるが歩いている人は極端に少ない。東京と違い地方都市は、ホントに歩いている人が少なく感じる…。それがちょっと寂しくもある。
向かうのは、会津名物の輪箱飯が食べられる「田季野」。輪箱飯を最初に始めた店と聞いた。ふと入った路地には、伝統的な造りの大きな雑貨店の姿。いい感じ。駅から1キロ程。地図を見ると簡単に見つけられそうだったが、どうやら適当に省略されているらしく見事に迷ってしまった…。うーむ。
困っていると前方に宅急便のヤマトのおにいさんの姿。普段からヤマトさんを毎日のように利用するため知り合いのように勝手に思いこみ、道を尋ねると当たり前のように親切に教えてくれた。やっぱこの会社はすごいわぁ。社員一人一人が会社の看板を背負い、ちゃんと世間と向き合っている。見習いたい。
お店は細い路地を入った所に堂々たる姿であった。店内に入って思わず、声を上げる。白と濃い茶色で構成された古めかしくも骨太な木造建築。大きな玄関ホールの吹き抜けには浅草の雷門のような巨大な白い提灯がぶら下がっている。聞くと、200年以上も前の陣屋(軍兵が宿営する所、また衛兵の詰所)を会津西街道糸澤より移築したそうだ。
人気の店らしく、店内にはたくさんの笑い声がする。二階の小部屋に一人座りメニューを広げる。五品が入った五種わっぱにも惹かれたが、この後そばを軽くやりたかったので少な目と目論んだ鮭わっぱを注文。がしかし、じっさいドデカく驚いた。わっぱの直径は30センチ近い。そして旨い…。アツアツふんわり、しっかり濃厚な味わいに、ウマイ!ウマイ!と連呼しながら食べていた。
わっぱは元々、山人の弁当の器として用いられてきたものらしい。そのわっぱにご飯と食材を入れ一気に蒸したものが輪箱飯。わっぱと一緒に蒸されることで香りもまたいいのである。会津の名物に舌もお腹も満たされ、そばを食う余裕など全く残っていないのであった。まあ、次にしよう。
再び118号線に戻り向かったのが鶴ヶ城。山の上ではなく、ほぼ平地に静かに美しく建っていた。鶴ヶ城は、伊達政宗の後、1590年に蒲生氏郷(がもううじさと)が入り、1593年に天守閣を完成させ名前を鶴ヶ城と命名。
その後、上杉家、再び蒲生家、加藤家、保科家、松平家と変換を経て、1868年の戊辰戦争にて開城となった。現在の城は、昭和40年に復元されたもの。城の内部は博物館になっており、当時の城の内部が見たかった僕としては、少々残念であった。天守閣が現存しない城は大概そうだが…。
天守閣のてっぺんに上ると、7月になったばかりの清々しい福島の風がサラサラ吹いていた。そしてぐるりと360度会津若松の街並みを一望できた。我が故郷の松山(人口約50万)くらいを想像していたが、高い建物もほとんどなく、のんびりした小さな街並みに映った。それもそのはず、会津若松市は人口約13万人の小さな街であることを後で知った。
さてと、次はどこへ行こうか…。街を歩いていれば何かあるだろうというずぼらな考えの元、118号線を駅とは反対の芦ノ牧(あしのまき)温泉方面へ向けズンズン歩き始めたのだが、素朴な風景がずっと続くばかりであった。歩く道の選択を誤った。気がつけば、会津若松駅から約4キロも離れた場所。
そして僕は、完全に途方に暮れた。
「ぶらり途中下車の旅(TV)」のようにはいかないものである(笑)会津若松と言えば、白虎隊でも知られる場所。白虎隊は幕末の戊辰戦争時に、15歳から17歳の少年で構成された会津藩の隊。その白虎隊に関連する記念館や20名が自刃(1名生存)したとして知られる飯盛山などもあるのだが、足を運ぶ気にはなれなかった…。
「命どう宝(ヌチドウタカラ)」。沖縄で言い伝えられている格言だが、命こそ宝物である。他人の命は勿論。自分の命もまた然り。そして命さえあれば次の一手がいかようにも打てるというもの。悲劇である。
会津藩は戊辰戦争において、幕府軍側につき東北諸藩の中心となり、会津藩5000名の老若男女が戦いに加わり鶴ヶ城に籠城し、薩長を中心とした西南諸藩の新政府軍と約1ヶ月にわたって死闘を繰り広げ、最終的に降伏した。(郷土資料事典より)なんとまっすぐで純粋な精神を持った人達なのだろうか…。白虎隊同様に侍の精神なんだろう。
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今回の旅は泊る予定ではなかったので、ぶらぶらと会津若松駅まで戻った。途中入った路地には伝統的な蔵造りの漆器・民芸店の姿も見えた。約200年を越す江戸時代の建物。トータルすると約8キロ。よく歩いた。駅の待合い室で缶ビールを飲みながらまったりした。初めての会津若松は、歩く旅となった。次は芦ノ牧(あしのまき)温泉にでも泊まり、旨いそばと日本酒を楽しみたいものだ。もちろん輪箱飯もまた。
(06年7月:旅々旅人) |
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