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「今年のお花見は千鳥ヶ淵に行こうか」
「うん行く行く。あそこってボートも乗れるんでしょ」
毎年桜が満開間近になると家族で一度だけ花見に出かける。一度だけ見れば満たされるから一度だけ…。(笑)花見といっても行った先で弁当を食べるでもなく、酒を飲むこともなくただ純粋に桜が魅せるやわらかい世界を楽しむ。
ネットで桜が8分咲きであることを確認し、千鳥ヶ淵に最も近い地下鉄の九段下駅で降りる。地上へ出ると、いきなり無数の桜が目に飛び込んできた。駅を出てすぐに桜が見られるとは驚き。さらに近づいて眺めるが千鳥ヶ淵の桜がこれほどまでに壮大で美しいことを東京に20年も住んでいながら初めて知った。
そして、桜同様に人もすごい。人気歌手のコンサート会場へ向かう群集のように、ゆるりゆるりと足を前に出さなければならない。家族でボート乗り場へ向かったが、なんと1時間待ちであることが分かった。もはやディズニーランドのアトラクション…。
当然あきらめ、今では武道館への入口のようになっている田安御門付近から千鳥ヶ淵を見下ろすと、気持ち良さ気にボートを漕ぐ人達の姿があった。
うらやましいなぁと思いつつ、田安御門を見ると、ボートのことを一瞬にして忘れるほど重厚な田安御門と桜が織り成す風景が美しかった。それはまるで京都の寺院に咲く桜を見ているかのようだった。美しい千鳥ヶ淵。しかし社会人になりたての夜の花見では、急性アルコール中毒で病院へ運ばれた悲惨過ぎる思い出もある。あん時はホントに死ぬかと思った…。(笑)馴れないウィスキーを飲みすぎたのでした。
それにしても人が多い。こうも人が多いとさすがにのんびりくつろぐこともできないので、妻と三歳の息子とは九段下駅で別れ、ひとり千鳥ヶ淵沿いを歩きながら江戸城へ向かうことにした。お江戸散歩。しかも皇居一周。実は一度やってみたかった。
そのまま千鳥ヶ淵沿いを歩くが桜はその後も延々と続く。ブラブラ歩いていると左手に半蔵御門が見えた。この辺りに来ると桜の姿はないが緑に染まる深い土手沿いに黄色い菜の花が咲いていた。かつて服部半蔵(家康の家臣で元は、伊賀の忍者)の屋敷があったことから名付けられた半蔵御門は皇居の入口でもあり、一般の人は入ることができない。
三宅坂へ出ると皇居と反対側の街並みに国会議事堂が現れたのでちょっと寄り道。土曜日なので門は閉められていたが、あたかも大仏のように静かに鎮座する国会議事堂が見えた。しかし不思議なくらい特別な感情は何も起きなかった。
再び、堀端へ戻る前にかつて徳川家の大老井伊直弼の屋敷跡の憲政記念館の側に立てられた記念碑を見つけた。加藤清正の屋敷跡とも書かれていた。
井伊直弼が水戸浪士達(薩摩藩士とも言われている)に殺害された「桜田門外の変」。その桜田門はこの屋敷跡からもはっきりと見える。このわずかな距離の間で殺害されるとは…。あの安政の大獄を主導した人だから、いかなる時も身の危険を感じていたハズだが、随分と油断をしたように思える。その油断はこの近すぎる距離にあったのではないだろうか…。
その歴史的にも名高い桜田門が実に見事だった。桝形と呼ばれる迫力のある大きな門で江戸時代から現存しているのだが、門を見て感動したのは初めて。桜田門を抜けるとそこは皇居の外苑と呼ばれるところで広い敷地に芝生のスペースが贅沢に広がる。ふと見えた看板にはマラソン禁止の文字。皇居周辺はランナーの格好の練習場所なのだ。
二重橋越しに見える伏見櫓のある光景は絶好の撮影ポイントらしく多くの人で賑わっていた。ざっと見た感じ日本人よりも外国の観光客の方が多い。僕もこの日までそうだったけど東京に住んでいる人でここを訪れた人は何%いるだろうか…。5%もいないのでは。こんなに素晴らしいところなのに…。
仙台藩(伊達政宗の時代)が築造しかつての江戸城の正門であった大手御門からいよいよ江戸城内へ入る。入場料は無料。江戸城は1590年に徳川家康が豊臣秀吉の指示で入る以前は太田道灌(おおたどうかん)の居城(1457年築城)であった。(太田道灌は1486年に殺害されている)
当時の城内はひどく荒廃し、さらに城の周囲は荒地が広がる僻地であったとされる。家康のすごさはこの現状においても前向きに将来を見据えて城を大改造し、上下水道を初め都市開発を精力的に進め100万人都市への基盤を築き、さらには徳川264年(1603年〜1867年)の天下泰平の基礎となる政治の仕組みを構築したところである。
その成功とは裏腹に人気は今ひとつだが戦国時代の勝者はやはり徳川家という事実。彼が基礎を造った街は今でも日本の中心となっている。さらに彼が神となって祀られている日光東照宮は、戦災にも遭うことなく、いまや世界遺産である。なんという強運の持ち主であろうか…。
かつての城内の番所「百人番所」と呼ばれる長い木造の平屋から大胆に石積みされた城壁を左右に見ながら進むと大きな芝生のある空間へ出た。芝生の上では寝転んだりしながら休日の午後を楽しむ人で溢れている。その芝生のスペースの一部が大奥の跡地と記されていた。そこにも艶やかな桜の木が並び現代においても優雅な場所であった。
そしてその奥に天守台の姿。家康、秀忠、家光と三代に渡って築かれた五層(約48m)の天守閣が本来ならこの上に建っていたのだ。第四代将軍家綱の時に起きた明暦の大火により消失しそれ以来なんと一度も再建されなかったという。もはやそういった象徴的なものも必要がなかった程徳川家は万全だったのだ。いかに家康がすごいかこの点でも分かる。部将であり、賢明な政治家でもあったのでしょうね。
天守台の城壁は当時のままで本物らしい。高台に建っているため天守台の上からは360度ぐるりと東京の街並みが見渡せる。新宿御苑さながら東京のど真ん中にこのような開放的な空間があることに改めて驚く。天守閣は大阪城天守の約二倍と聞いていたが想像していたよりも大分小さく感じた。
かつて大奥への通用門とされていた平川御門を通り抜け、江戸城を後にした。あれだけの空襲や火災に遭っていながらも、多くの建造物が現存していることは奇跡的であろう。
出発点の九段下駅に戻ってくると約2時間と30分が経過していた。膝が久しぶりに笑っているのが分かった。辺りは夜桜を楽しむ人達でさらに溢れかえっていた。
(08年3月:旅々旅人) |
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